次の日から、さくらは誠一専属のメイドになった。
誠一は、智彦にさくらを自分の専属にしたいと頼み込んだ。
聖のお気に入りであるさくら。誠一専属にすることを智彦はなかなか承諾しなかった。しかし、誠一の熱意に負けた智彦は、しぶしぶ承諾してしまう。
誠一からさくらに強要されたのは一つ。
仕事に付き添い、そこで会う人たちの未来が見えたとき、誠一に報告すること。ライバル企業や取引先、誠一にとっての重要人物たち。
誠一は毎日さくらを連れまわし、その人物たちに会わせていく。さくらは見えた未来の内容を、逐一報告していった。
その後、誠一がその情報をどう使用したかはわからない。
しかし、現実に誠一の仕事は好調で、彼の地位はみるみる上がっていった。
「誠一、最近よく頑張っているらしいな」
「ありがとうございます」智彦に褒められた誠一は爽やかに微笑む。
そして、横にいるさくらに目をやり、ニヤリと不敵に笑うのだった。
夕食のあとのティータイム、さくらは聖に呼び止められた。「さくら、ちょっといいかな」
聖はさくらを自室へと招いた。
なんだか聖の表情が暗いことが気になったが、さくらは素直に聖の後ろをついていく。
誘拐事件以来、聖とは気まずい空気になってしまい、お互いすれ違っていたので、聖から誘ってくれたことがさくらは嬉しかった。
部屋に入ると、急にさくらは聖の手により壁に追いやられる。
さくらの肩を壁に押しつけ、聖が迫ってくる。すぐ目の前に聖の顔があり、さくらの頭は混乱し目が回ってしまう。
「ど、どうしたんですか?」
「どうした……はこっちの台詞だよ。なんで兄さんの専属になったの?」聖は悲しみと怒りを込めた目で、さくらを見つめた。
今まで見たことも無い表情をした聖に驚き、さくらはまともに目を見ることができず、視線を逸らしてしまった。
どう答えればいい? どう言えば納得してもらえる?
「誠一様は、お仕事が忙しいらしく、手伝ってくれる人が欲しかったようで……私が指名されました」
必死に考えた答えがそれだった。すぐさま聖が追及してくる。
「なんで君なんだ? 他にもメイドはいる」
「それは――私にはわかりません」さくらが黙ると、聖もしばらく黙ってしまう。
先に口を開いたのは聖だった。「僕は、我慢していたんだよ……。
僕だって昔からさくらを専属にしたかった。でも、そんなことしたら君が嫌かもしれないとか、他のメイドたちから何か言われるかもとか、色々考えてやめていたんだ。 専属にしてもいいなら、僕の専属にしたかった!」聖は苦しそうに息を吐いて下を向く。
そんな風に想っていてくれたなんて――。
また、さくらの知らない聖の想いを知り、嬉しくて、さくらの心は満たされていく。
聖への想いが破裂しそうになるのを必死で押さえるので精一杯だ。私だって聖の専属になりたかった、と言いたい、けど言えない。
さくらも苦しげに息を吐き、天を仰ぐ。
突然さくらの顔は両手で掴まれ、聖の方へと向かされた。
かと思うと、あっという間にさくらの口は聖の唇に塞がれる。一瞬止まったかのような時が流れる。
え? どういうこと? 何が起きているの?
さくらが固まって動かずにいると、聖の唇がさくらの唇からゆっくりと離れていく。
「……ごめん」
そうつぶやいた聖は、さくらを残してその場から走り去っていった。
一人残されたさくらは、たどたどしく両手を唇に当てた。
しばらく呆然としていたが、徐々に涙がこみ上げてくる。唇には、まだ彼の感触と温もりが残っていた。
本当なら、死ぬほど嬉しいはずなのに、素直に喜ぶことができない自分が悔しくて、彼の想いを受け止めたいのに、受け止められないことが辛くて……。
涙が次々溢れてくる。
さくらは声を押し殺し、その場にうずくまった。
そして、泣き崩れ、そのまま時は過ぎていく。その一部始終を見ていた梨華が、ショックで泣き出してしまう。 すぐに梨華の父の怒りが爆発した。「黒崎さん、これはどういうことですか! このような態度は、梨華を侮辱したも同然! これがどういうことかわかっているのか!」 娘を侮辱された父親の怒りほど恐ろしいものはない。 智彦はどうにか相手の怒りを鎮めるように、努力することしかできなかった。「申し訳ありません、どうか穏便に。 聖にはよく言って聞かせますので。どうか今回はお許しを」 智彦は頭を下げ、謝り続ける。 しかし、梨華の父の怒りが収まることはなかった。 その夜、聖は智彦に呼び出された。「――おまえ、どういうつもりだ? 梨華さんは泣き出すし、御父上はお怒りで。もうこちらの話を聞いてくれない。 北条家との関係が悪くなったらどうしてくれるんだ! 北条家と繋がりを持てるなんて幸運なことなんだぞ! 梨華さんだってあんなに美しくて優しそうな方じゃないか。何が不満なんだっ」 智彦がいくら言い聞かせても、聖は聞く耳をもたない。 もう心は決まっている、というように。「さくらか……。あの娘がおまえを惑わすのだな」 智彦が少しの間、黙って何かを思案しているようだった。 そして、決定的な言葉が放たれた。「ならば仕方ない。さくらはこの屋敷から出ていってもらおう」 今まで黙っていた聖が急に叫んだ。「父上! そんなこと、私が許さない! そんなことをしたら、私はこの家と縁を切ります」 聖は冗談ではなく本気で言っているのだと、智彦にもすぐにわかった。 しかし―― 眉を寄せ、大きな息を吐いた智彦は聖を見つめる。「わからん、そこまでしてあの女と一緒になりたいのか? 父を裏切っても? この家を捨ててでも?」 智彦の問いに、しっかりと頷き返す聖。 その瞳には、何に
応接室には聖、梨華、智彦、そして梨華の父親がいた。 聖と智彦が同じソファに座り、その向いのソファに梨華と梨華の父親が座っている。 まさにお見合いの席、という空気感が漂っていた。「失礼いたします」 さくらが紅茶を載せたカートを押し、ゆっくりと四人の側へやってきた。 紅茶を持ってきたのがさくらだと知り、智彦と聖は驚いたが、客前なので冷静を装う。 しかし、聖はさくらが気になり目で追ってしまっていた。 それを梨華は見逃さなかった。 梨華は聖を見つめていた視線を動かし、さくらの方を見る。 その目は、何かを探っているようだった。 さくらは紅茶を注ぐと、カップを梨華の父の前にそっと置く。続いて、梨華の前にも置いた。「あなた、ここのメイドさんよね。……とても可愛らしい」 突然、梨華がさくらに声をかける。 思ってもみない梨華の行動に、さくらは驚き戸惑ったが、メイドとして笑顔を返した。「はい、黒崎家に仕え、六年になります」 梨華は驚いた様子で目を見開き、口元を手で隠した。「その若さで、既に六年も? 小さな頃からこのお屋敷にいらっしゃるのね……羨ましい」 梨華は少し落ち込んだように肩を落とす。 皆が不思議な顔をして梨華を見た。 注目された梨華は、少し照れたように頬を染めた。 その姿は本当に可愛らしく、女性のさくらでさえ見惚れてしまうほどだった。「いやだわ、ごめんなさい。メイドさんに焼きもちなんて」 そう言うと、艶っぽい眼差しを聖に向ける。 聖はそんな視線など見向きもせず、さくらばかり見つめていた。「私、幼き頃より聖様のことが好きでした。 この度、聖様の婚約者に選ばれて、すごく嬉しかったんです。 ……でも、こんな可愛いメイドさんがずっと聖様の傍にいたかと思うと、心配で」 梨華がため息をつきながら下を向く。 この空気はまずいと思った智彦が、すぐさ
そして、とうとうその日はやってきた。 聖の婚約者の北条(ほうじょう)梨華(りか)が屋敷へ訪れる。 梨華は不動産業界で名を馳せる北条家の娘。 北条家は不動産業界でもトップに君臨し、ホテル経営では右に出る者はいなかった。 彼女は聖と相応しい肩書の持ち主だ。 さらにはその美貌、彼女はとても美しかった。 黒く長い髪に映える豪華な髪飾り、華奢な体には着物姿がよく似合い、桜模様が彼女の女性らしさを際立たせている。 長いまつげに大きく丸い瞳、そして小さく真っ赤な唇。まるで日本人形のようだった。 とても女性らしく、儚げで、守ってあげたくなるような雰囲気を醸し出している。 なんであんなにすべてを持っている人がいるのだろう、神様は不公平だ。 さくらは心の中でそっとつぶやいた。 応接室へと続く扉の前にはメイドたちが群がる。 梨華を一目みようと、メイドたちが扉付近に集まっていた。 皆、そわそわと瞳を輝かせている。 さくらもその集団の中から、梨華の様子を眺めていた。「あれが聖様の婚約者ですって」 「まあ、可愛らしいこと」 「お似合いよねえ」 「不動産関係の財閥令嬢なんですって」 メイドたちがひそひそと話に花を咲かせていると、コホンと咳払いが聞こえた。「みなさん、仕事に戻って」 旭にたしなめられたメイドたちは、しぶしぶ持ち場へと戻っていく。「大丈夫ですか?」 旭がさくらに耳打ちする。「え? 何がですか?」 さくらは悟られまいと、わざと元気な素振りで振り返った。「いや、ほら、聖様の婚約者のこと」 旭は言いにくそうに眉をひそめる。「はい、大丈夫です。前からわかってたことですから」 さくらはニコッと微笑みながら答えた。 好きになったって、両想いになったって、現実はこれだ。 結局、結ばれはしない。 そんなこと、わかってた
屋敷の中を、一人のメイドが駆け抜けていく。 さくらは長い廊下を走りながら、ところどころで止まり、辺りをキョロキョロと見渡す。 そう、さくらは聖を探している。 専属が解かれたことを報告するためだ。 智彦の部屋を通りかかったとき、中から大きな声が聞こえ、さくらは足を止めた。「おまえは何を言っているんだ! 正気か?」 いつもは温和な智彦が、声を荒げ叫んでいる。 いけないことだとは知りつつ、どうしても気になったさくらはドアの隙間から中の様子を覗き見る。 そこにいたのは、聖と智彦の二人。 ただならぬ雰囲気でお互い睨み合っている。「僕は本気です、将来はさくらと一緒になりたいと思っています」 聖のその言葉を聞き、智彦は肩を落として大きなため息を吐く。「さくらはただの使用人だぞ。 おまえがさくらを気に入っているのは知っている。 遊びならいい、しかし結婚は駄目だ」 「なぜですか? 誰を選ぶかは僕が決めます。 それに、使用人だからって何だっていうんですか。結婚しては駄目な理由になどならない。僕たちは愛し合っているんです」 いつもは物静かな聖も、ここは引けないとばかりに智彦に喰ってかかる。 智彦は駄々をこねる子どもに、どうしたものかと悩む親のような顔をしていた。 そして、当主らしい顔つきになったかと思うと、はっきり告げる。「ここは黒崎家だ、一使用人の娘と結婚など許されない。 そういう家におまえは生まれたのだ。 私はおまえを愛している、もちろん勘当なんてできない。 いいか、よく聞け。人には身分相応というものがある。 聖には、婚約者を用意している。今度紹介するから、そのつもりでいるんだ」 智彦の一方的な発言に、聖は反論する。「そんなこと知りません! 僕はさくら以外の人と結婚など」 「黙れ! これは命令だ!」 迫力のある一喝に、さすがの聖も黙ってしまう。
「おまえに何がわかる? 俺はこの家の長男だ、この家を背負う運命をもって生まれてきたんだ! 父上の期待を背負い、それに応えなければならない。昔から必死にこの家の当主になるために頑張ってきた……。 それなのに、父上が可愛がるのはいつも聖だ。 あいつはたいしたこともできないのに、可愛がられていた。 俺は、何か成果を出さないと褒められたことがない。俺は常に何かを成さなければならない! そうしなければ、俺の存在価値などっ――」 誠一の言葉を途中で遮り、突然さくらは誠一を抱きしめた。 驚きのあまり、誠一はさくらを凝視し固まってしまう。「誠一様、ずっと苦しんでおられたのですね……。 私、わかります。私もずっとそう思って生きていました。 私は空っぽで、ありのままの自分では愛されない。誰かのお役に立たないと、誰かから必要とされなければ生きている意味がないと。 ……でも違った。 聖様や旭さんが私のことを受け入れ、必要としてくださいました。 そのままでいい、さくらはさくらのままでいいと。 すごく嬉しかった。 私も誠一様と一緒にいて、誠一様はそのままで素敵な方だと思いました。 私はそのままの誠一様が好きです、どうか一人で苦しまないでください」 誠一の脳裏に母の姿がよぎった。さくらに母の面影が重なる。 母は小さい頃に亡くなっており、少しの記憶しかなかったが、とても優しく温かい人だった。 さくらの温かさは母親のものと似ていた。 誠一の中の、今まで張りつめていた気持ちがふっと消えていくのを感じる。 なんだろう、不思議な感覚だ。 自分では気づいていなかったが、俺は誰かに本当の自分を認めて欲しかったのだろうか。 何者でもないありのままの自分を、受け入れて欲しかったのか。 導き出されたその答えを誠一は認めたくはなかったが、この感情は認めざるを得ない。 今まで感じたことのない安らぎに満たされていた。 誠一は悔しそうにさくらを見つめる。
さくらはボーっとしながら、廊下を歩いていた。 昨日のことが頭に浮かぶ、すぐにかき消そうと頭を振ってみるがまた浮かんでくる。 その攻防を繰り返していた。 これが世に聞く恋の病なのだろうか。 さくらにはわからないが、これは重症だ。 それにしても、結局、能力のことは聖に言えていない。 想いは伝えることができ、さくらは晴れて聖と両想いになった。 それは夢のようで、幸せだった。しかし、まだ問題は残っている。 肝心の能力のこと。 ……もし能力のことを知ったら聖はどう思うだろう。 その恐怖心がさくらの心に影を落としていた。 そして、乗り越えなければいけないことがもう一つあった。 聖の父と兄の問題だ。 智彦のことは聖に任すとして、さくらは誠一に集中しなくては。 気合を入れ直し、さくらは誠一の部屋へ向かうのだった。 さくらが誠一のもとを訪ねると、いつも通りの素っ気ない返事が返ってくる。「何のようだ」 誠一は自室で仕事をしていた。 手元の資料を睨みながら、さくらのことなど一瞥もくれず話す。 最近、誠一は仕事が忙しそうだった。以前よりも仕事量は明らかに増えている。 多くの仕事を成功へ導き、周りから評価され、智彦からも信頼を得た誠一。 さくらには想像もつかないほどの仕事を任されているようだった。 本人はそれを望んでいるようだが、さくらから見た誠一はちっとも幸せそうには見えない。 無駄かもしれないが、さくらは誠一を放っておくことができず、つい口を出してしまう。「誠一様、最近、お仕事増やし過ぎではないですか?」 「おまえに関係ない」 すぐに冷たく言い返される。 さくらはしばらく誠一と一緒にいたせいか、以前は苦手に感じていたこの塩対応にも慣れてしまった。「誠一様、無理なさっているように思います。 なんだかお父様に